鮎原人が知っていることが一つだけあります。
それは、鮎釣りに出かけると、必ず満足感に満たされて帰ってこられるということ。
美しい魚に出会えた満足、景色や水の清々しさへの満足、川で出会った人、思い出への満足、心地良い疲労への満足、満足の数々。
鮎釣り始めた頃は、ボーズ逃れだけで満足でした。それが次第にエスカレートして記録(数、型)への挑戦に変わった頃、得られる満足感が、とても傲慢なものに変質していきました。
それは、拝金主義のいやな風潮の様。
アメリカや中国は大陸です。
そこは競争原理が幅をきかす国々で、どれだけ儲けたかがステータスの国です。
多分日本人が想像できない位に。
鮎釣り競技に関して言えば、確かに競争は良い面もあります。
しかし、どこかに殺伐としたものを残します。
勝者ばかりに当たるスポットライト、成果だけが脚光をあびる。
みなその地位を目指すが、本当の楽しみって、競争の埒外にあるんではないかと。
一度は上がってみたいと思うのも束の間、いざ立ってみるとそこは「鮎」の見えない「競争」オンリーの世界なのではないかと。
鮎釣りは「鮎」を釣ることです。
鮎釣りの世界に浸ることで、都市文明で失ったなにかを、おそらく自然のままの自然から照射される何かを感じ、それを受け止め、生きるエネルギーにして、また元の生活に戻る。
都会生活をしてたっていいんです。ただ、都会の生活は根元のところで大自然の摂理が支えている。逆に都市は自然の犠牲の上に成り立っていること。その自然を蔑ろにすると、都市文明そのものが崩壊すること。
これは遥か太古のメソポタミア文明、エジプト文明の森林破壊を例に上げるまでもなく、近世まで続いた西ヨーロッパの森林破壊をみれば一目瞭然。
しかし幸い日本にはまだ自然が残っています。
家に来ているカナダの留学生が驚いていました。
日本は国じゅうが秋葉原のようなハイテクタウンだと思っていたが、森林の多いことが意外だと。
そうです。それを知ってもらいたくて海や山やスキーに連れて行ったんです。
話が大分それました。
「鮎釣りを極める」
鮎釣りとは鮎・自然との戯れだと感じます。
数多く短時間で好釣果を上げるためにやっているわけではありません。
研究し、工夫しつくして試すのも、ある時期必要かもしれません。
人間の欲望が尽きることを知りません。
だから、都市住人の競争原理を、自然の川に持ち込んだりします。
ですが、鮎釣りに都会の評価基準たる「生産性」を求めてはいけません。
その生産性哲学を捨てるために鮎釣りをするのです。
間違ってはいけません。
釣果で幸福度は計れません。
目的意識が強すぎてもいけません。
他人との競争意識が強すぎてもいけません。
それぞれ適度に。無理をしないように、自然に。
日常を脱ぎ捨てて、自然の中に身を任せましょう。
一尾、一尾の出会いを大切にしましょう。
そして、日常と非日常(自然)とを並存させましょう。
けっして極めようと思ってはいけません。
ともするとそうなりそうな気持ちは理解できます。鮎原人もそうですから。
追いかけると 「それ」 は逃げていきます。
行き着いたと思っても決して到達できない高みもあります。
それは多分人間の欲望です。
鮎釣りが欲望の追いかけっこでは、悲しすぎます。
もっと、ほがらかに、鮎も、人も、自然も、出会いを大切にしてみては如何でしょうか?
釣りは生きている数十年のあいだの出来事です。
自分の趣味は、消費し尽くすのではなく、育みたいものです。
自戒の念を込めて。
おわり。
(2011年 のぞみ 乗車中のふとした思い)
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