東スポが日本を救う
東京から離れて二十数年
最近「
東スポ」が懐かしい
あの根拠無し、めちゃくちゃの記事。
それを楽しみにして買う読者
新聞とは名ばかりの懐の深さw
かといって、時々他紙には書けないスクープがあるから気が抜けないのだ(笑)
大マスコミ、大新聞が書けない記事、
無謬性とはかけ離れた自由奔放な記事、
だけれどもそういったものに『慣れる』ことが、読者市民の寛容を生み、
自由な言論空間を育むのでは無いか。
原発人災報道で市民は嫌と言う程知った筈だ。
マスコミがいかにいい加減で、真実とはかけ離れた報道を臆面も無く繰り返し、
またその非真実性が暴露されてからも一向に反省をしないどころか、
ほとぼりが冷めればまた同じような過ちを犯す。
誤報、確信犯的誤報をしておいて、間違えましたと職を辞したマスコミ人を寡聞にして知らない。
「自分と家族の生活を守る」 ことが彼らの本心(過去にそう言っていた)なのだから、間違えたって職は辞さないし、
わかっていても生活の為なら偽記事を書く。
最近はネットでも過去記事が取得できるであろうから、普段信じていたあの新聞記事が、
事故当時どのような論調で書かれ、今はどのように「転向」 しているのか明瞭になるだろう。
「当時は間違っていた、でも今は正しい」 のでは無い。
今は常に今なのだ。 だから 「今も」 常に真偽は混在しているのである。
だから、大新聞、大マスコミだから 「正しい」 のだという 「常識」「願望」 を捨てることからしか
一市民のまっとうな言論力は取り戻せない。
そうなのだ。
だからまず、東スポ を読もう。
そしてそのめちゃくちゃ感から、マスコミ情報だけに一元的に頼らない本当の自分の立ち位置を見つけよう。
東スポの読者が全国に広がれば、
既存大新聞、大マスコミの間違った世論操作に踊らされることが無くなり、
政治家もその間違った世論に右往左往することが無くなり
歪狭で浅薄なエセ世論に惑わされること無く、
却って天下国家を論じられる大物が育つのではないだろうか。
いずれにしても、国家の行く末を決めるのは、個々の市民なのである。
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