7.11 一年四ヶ月後

鮎原人

2012年07月14日 12:15

福島・いわき市のtamaさんのお元気そうなお顔を拝見しほっとし、

また、福島第一原発の危機的状況を現地の生の声で確認し、(マスコミ等には流れていない)

危機感を新たに強め、ボランティアのお手伝いに向かう。



夜の国道をひた走り、仮眠途中に職務質問を受けつつ、南相馬に入る。

福島・南相馬市の原町火力発電所。

バイオマス発電等で、世界最高水準の発電効率を誇るものだったが、

震災・大津波後、停止中。


海岸はサーフィンのメッカだったのか?

よく整備された美しい海岸が広がっていたのだろう。

一周忌の慰霊碑と献花が。




野宿した海岸を早朝に発って、ボランティアセンターに伺ったが、



人吉・・熊本地方は大洪水で大変な時。


南相馬の一部立ち入り禁止措置が解除され、ボランティアニーズがあると踏んで現地入りしたのだが、

外回りの案件は金~日でないと募集していないそうな。

あとでHPで確認したところ、その通り。

事前調査を怠ったことを後悔。

それならば、と。

被害の酷かった、宮城・南三陸町まで足を延ばすことに。







6号線をひたすら北に走る。

新地町の港は、まだ瓦礫撤去の最中。 港湾機能が復旧するのはいつのことか。



仙台の鳥の海 亘理町、荒浜、阿武隈川の河口あたり。

最早頼るモノは、仮設の防波堤のみ。


旧防波堤は完全に破壊され、内陸側は深くえぐれている。



奥の風景は、住宅街がひしめいていた筈


荒浜中学校





再び常磐道に乗り、松島を通り過ぎ、

北上川まで来た。




南三陸町にたどり着く。ここまで名古屋から900km


折立地区

初めて目にする現状。 写真や報道とは違う、生の訴え。

家が何も無い町並み。むしり取られた家。基礎のみ剥き出し。夏草がむなしく青い。

杉は、塩害で枯れ始めている。

立ちすくんだ。


JR気仙沼線 陸前戸倉駅が、消えた。





志津川地区

うずたかく積まれた瓦礫の山。

震災直後の泥沼化した土地から瓦礫をここまで撤去していただいた。

自衛隊さん、各団体、ボランティアさん達に感謝。

それにしても、廃墟である。不謹慎きわまりないが、墓場に立っているようにすら錯覚する。



悲劇の現場となった防災庁舎。

ここに逃げ込めば安全な・・・筈だった。


海側。よじ曲げられた鉄筋


山側。非常階段上部と、アンテナ塔に掴まった人だけは助かったとか。



こんな汽車がどこから来たのであろうか?


ビルの4階以上まで積まれた、膨大な瓦礫の山。

こんな見晴らしは、かつて無かった。いや、あってはならなかったのだ!


思い出が、いや、思い出になる筈のなかった数々が眠る。



被災地の皆さんの心からの気持ちが、ひしひしと伝わる。



この先にも、多くの被災地が続く。

真新しい標識、新品の電柱。電気がなけりゃ、信号機だって動かない。

少しでも早くと、インフラを整えて頂いた、当局、電力会社の努力。


以上、ここまでは、ハッキリ言って観光である。

何も被災地の為になっていない。自己満足の為の行動。

だけど、動かずには居られなかった。見ずには居られなかった。

何度流したか判らない、「涙」 で、自分の行為を正当化するしか無い。




夕刻、

高台の仮設役場隣にあるボラセン。


本日の募集は終了。

明日の朝8:30から。



翌日。

ボランティアのお手伝い最中の写真は一切無し。

ボランティア作業中は、ミッションだけに集中。

ひとたびボランティアビブつけた人間が、観光気分で写真なんてとってはダメなのだ。

高台の仮設住宅からの目に、どう映るか。

お手伝いさせて頂く側のモラルが問われる。



お手伝いさせて頂いたのは、志津川警察署裏手の竹川原地区。

グループは20名ほど。

バス3台の団体さんは、他の現場に向かった模様。

ひたすら瓦礫撤去と、土砂掬い。

道具は、スコップ、クワ、ネコ、竹箒、バケツ・・・皆、寄付によって賄われている。

仕事はきつい。一時間おきに休憩しないと、足腰がもたない。

だけど、私より若い人たちが大半で、元気に協力しあって作業してくれる。

ここまで来る人たちの意識は高い。



一つ嬉しいことがあった。

たまたま高台の仮設住宅から、自宅跡に来られていたご婦人。

宛があるわけでもなく、何か見つからないかと来られていたそうだが、

たまたまそこの整地をしていた若者が、スコップで掬うと、

ポロッと、金の指輪が出てきた。

それを周囲に確認していると、

先ほどのご婦人が近づいてきて、


「これは私の義母の指輪だわ!」

と、

とても喜んで頂いた。


発掘時の現場に縁者の方がいらっしゃる偶然。

作業していたみんなが手を止めて、歓声を上げたのは、言うまでも無い!

疲れを癒やしてくれた唯一の出来事だった。





作業が終わり、ボラセンに戻る。

ここのアリーナには、多くの遺体が安置された筈だ。

今は、無料でシャワーが借りられる。


今回の活動は、一日無駄にしてしまったため、残念だがこれで終了。

勝手がわかったので、次回は日数をかけて再訪したい。





帰途、嵐の前の海。 遠くの養殖施設は、豊穣の海からの恵み。晴れていれば、とても綺麗な海である。


あの時、大津波が襲って来ると判っていれば、果たして備えは出来たのであろうか。





被災現場で感じたことは多くあるが、ともかく言葉で表現しきれない事が多すぎる。

書くことで、写真に収めることで、

何かを伝えられるという感じよりも、

もっと大事な多くの事柄、感情をとりこぼして、 「伝えられてない」 という 無力感の方が強い。

だから、来たのだ。

他人がいくら伝えようとしても伝わらない事、声、言葉にならない事実の数々が、現場にはある。


3.11以降変わってしまったこの社会を生き抜く一人として、

体験しなければ先に進めないことが、ここにある。

ドアの前に立ち止まっていても、

一歩も外に踏み出さなければ、何も進まない。


兵庫・西宮から、石巻にボランティアをするために移住された、M氏。

ボランティアでは一緒に瓦礫を運び、お世話になりました。

私より10歳も若かった。

あなたのような意思が、これからの未来を少しずつ変えていくのかもしれません。



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